冬の終わりを告げる小鳥の囀りと、暖かい春の日差し。

ソフトボールに興ずる公園の人々。スーパーマーケットに並ぶ春野菜。スーパー銭湯の露天風呂では老人達が呑気に日光浴をしている。
 これが2週間前の週末、私が目にした穏やかな日常だった。ネットとテレビの中の日本を見なければ...

 地震、津波、帰宅難民、原子力発電所の爆発、計画停電。今ではメディアの報道も多少落ち着いているとは言え、3.11 から今なお続く、まさに未曾有の惨劇と混乱の中、しかし、ネットやテレビを離れて家の外に出てみれば、自分の目の前にあるのは先に述べたような、あまりに拍子抜けするほどの平穏な日常。ネットやテレビと、自分の今いる場所とのギャップ。果たして、リアリティーがあるのはどちらか?
 このような、まるで白昼夢のような感覚は、以前にも経験した事がある。10年前の、9.11。
 あの時、テレビはまるで世界の終わりであるかのように絶叫していた。しかしその時私は、逆に世界は終わらないのだという確信を得た。今続けている仕事は明日も続く。自分の住んでいる田舎のアパートに航空機が突っ込んでくるなんてあり得ない。それでも、しかし、テレビに映っているリアリティーのある現実は何なのか?それに対して、まるで空虚なリアリティーをもって過ごす、いつもの日常。
 今回の震災でも、目の前の平穏な日常にこそ、空虚なリアリティーを感じることが少なくない。いや、ほとんどの時間がそうだ。その感覚は 9.11 の時より強い。それはきっと、今回が遥か彼方の異国の悲劇ではなく、自分の住んでいる日本の惨劇ということもあるだろうし、10年前と比べて遥かにネット環境が良くなっていることもあるだろう。(10年前はまだ、常時接続ではなく、ダイヤルアップだった)
 目の前の平穏な日常に比べて、ネットやテレビから受け取る情報に、遥かにリアリティーを感じることの違和感。しかし、この違和感から受けるものは、昔のように単なる空虚なリアリティーだけではない。特に現在のネットで活発に繰り広げられている、単なる情報を消費するだけではない、個々人の意見交換。この意見交換から、今回の危機的現実の中で、社会に広がった善意の一体感を感じた。例え、それぞれの意見に隔たりがあったとしても。

 あれから2週間。今でも、被災地の状況はまだまだ復興どころではないようだ。しかしそれでも私は、何年か後、それは遠い未来になるのかもしれないが、日本が今より良い社会になっているという、確信に似た思いがある。その根拠が、危機を前にした社会の一体感。
 勿論、デマの拡散、緊急を要する救援に対する無責任な批判、過度に不謹慎を咎める神経質な言動等、社会的な問題は数多くある。しかし、このような問題は、いつの時代でも、どのような場所でも、無くなる事はないものだ。更に今回のような想像を絶する大災害を前にすれば、そのようなマイナスのファクターなど気にしている場合ではなかろう?過度な繊細さも必要ない筈だ。そのようなものは、いざという時に役立たない。
 それよりも私は、3.11 当日に、日本各地、いや世界各地で同時多発的に起こった善意の一体感を信じている。この一体感が未来に希望の灯火を照らしていると確信している。

 最後に、今回の震災による被災者の方々へ、お悔やみとお見舞い、今後の復興へのエールを送ります。私に出来る事は、きっと微々たるもので、何も役に立たないことだらけだろうけど、心はそちらに。そしてこれからも、自分はいつも通りの平穏な日常を守る努力を続けます。これが自分の出来る一番の行動だと考えて。



エッセイ  ||  リンク  |  2011年03月25日 23:44 投稿     Permanent Link

機内サービスの映画で、

「シャイニング」と「南極料理人」を見ました。
 実は最近、全く映画を見ていません。久しぶりに見る映画が空の上というのも、我ながら情けないものだと思いますが、今更「シャイニング」っていうのも、もっと情けない話です
 しかし、さすが名作中の名作ですね、様々なシーンがデジャビュです。ラストシーンのみならず、重要なシーンは、ほとんど以前に見たような気がする。きっと写真や、映画紹介なんかで見た事があるのでしょう。実はこの映画、初めて見たのではないのではないか?本気でそんな気にさせられました。
 その後、続けて見た「南極料理人」、見ている途中で、あれっ、この設定、「シャイニング」と同じじゃない?って思いました。
 外界から隔離された極寒の土地。限られた物資での生活。毎日同じメンバー。そのような閉塞感漂う地で、精神的に不安定になる人間の姿。この2作を対比して話題にする人はほとんどいないと思いますが、偶然にも続けて見たことで、極限の地で人間がいかに行動するか、色々考えさせられました。
 最初に見た「シャイニング」、さすがキューブリックのカメラワークは抜群で、機内サービスの小さな画面でも絵が画面にハマる感じで素晴らしい。ステディカムを駆使した撮影、特に三輪車を運転する子供の背中越しに、しかも低い位置から撮影したシーンが緊張感を高めます。
 対して「南極料理人」、小さい画面で見ているのに、微妙に構図が締まらない気がしてしょうがない。まぁキューブリックの後で見たのが運の尽き、って気もしますが、あと少し引いて撮ったら決まるのに、とか、映画館の大画面で見たらもっと落ち着かない絵になるんじゃないか、なんて余計な事を考えながらストーリーを追ってしまいました。それにしても「シャイニング」でホテルの全景を撮影したシーンの圧倒的な存在感に比べて、「南極料理人」の基地の全景は、同じような構図で撮影しているのに、なんだか、ただの説明的な絵にしかなっていないような気がしてしょうがない。
 とは言え「南極料理人」の人間模様の描き方や、一つ一つのエピソードは妙に説得力があります。まぁ、もしかしたら自分と同じ日本人が作った、というのが大きいのかもしれませんが、全編に渡って流れる、ある種の虚脱感も含めて(そういう意味では締まらない画面が良かったのかもしれませんが)、南極という特殊な筈の場所をリアルに感じることが出来ました。おかげで物語も半分くらいを過ぎると、締まらない構図もだんだん気にならなくなってきたり... 。
 で、そうすると今度は「シャイニング」のオカルト的なところが、リアルな現実を薄めるファンタジーのような印象を受けて、物足りなくなってきたりするのです。とは言え、そもそもホラー映画なので必要以上にリアルなものを求めるのも筋違いでしょうが、それでも子供や黒人の『シャイニング』という特殊な能力は、この映画にはほとんど意味がない。
 なんて考えながら調べていると、キューブリックは、スティーヴン・キングの原作を大幅に変えているらしいですね。原作を読んでないので断定的なことは言えませんが、原作のオカルト的な表現を、人間の精神的な弱さによる幻覚の類いに昇華しつつ、普遍的な人間像を描いたであろうキューブリックの才能に、今度は感嘆してしまいます。
 と言うように、この2作を並べてみると、感想があっちへ行ったり、こっちへ行ったり。そんなところも面白いな〜、と思う2作です。
 最後に、この文を書く為にネットで調べていたら見つかった、「シャイニング」についての面白い解釈が書かれたサイトをリンクしておきます。機内サービスの映画では、そんな細かなとこまで見れないけどっ、て言うか、機内サービスでしか見ていない人間が書いた文章とリンクされるなんて迷惑?、なんて思いながら(苦笑)。

 

JAL 日本航空

エッセイ  ||  映画  |  感想  |  リンク  |  移動中  |  アフィリエイト  |  2009年12月29日 07:55 投稿     Permanent Link

バックアップって大事だよね

って思う事態が先日発生!
 Mac OS 9 から X に移行した際、そのままでは使えないデータとか、色々あったので、無謀にも「バックアップって意味ないじゃん!」なんて思ったりして、頻繁にバックアップするのが億劫になっていたところ、とうとう先日、Mac 君が目覚めなくなってしまった!!!
 と言っても実は、永眠したのは、サブで使っている Mac だったので、Mac 本体はさよならしても惜しくなかったのが不幸中の幸い。

 ...と言って、話を終わりたかった所ですが、肝心の中に入っているデータはそういう訳にいかず、メインの Mac から、ターゲットディスクモードで繋げるなどして汗だく(冷汗)で格闘。しかし、ことごとく惨敗(号泣)。
 で、どうしても必要なデータが入っていたので、泣く泣くデータ復旧サービスのお世話になってしまいました。

 まぁ、この話は一応これで終わりなのですが、後日談として、これからはしっかりデータのバックアップを取らねばと意気込みまして、結構時間をかけて、外付けハードディスクにちゃんとバックアップを取った訳です。で、数日後、その外付けハードディスクを繋げてちょっと作業していたら、ソフトのトラブルで再起動をすることに。
 で、なんと再起動後、その外付けハードディスクはマウントされず、「キュルキュル」という異音を発し続けるではないですか...。

えーっと、、、バックアップって、一体いくつ取ったら安心なのでしょう?
エッセイ  ||  パソコン  |  2009年11月27日 00:34 投稿     Permanent Link

平木収さんが亡くなられた

のを、知人のブログで知った。
 学生の時からご指導受けているので、平木先生と呼んだ方が良いのだろうけれど、あまり為になる話をしてもらった記憶は無い。それでも、卒業後も何度かお会いする機会に恵まれ、ある意味、続けてきたご褒美まで頂いた、と言ってもよいかもしれないに選んでもらったこともある。
 その「ミオ写真奨励賞」の授賞式か何かの時、ちょうど私も色々な意味で不安定な時期だったので、別れ際に、「また、お会い出来ますよね?」みたいな事を聞いた。
 すると平木さんは笑いながら「こんな賞をもらって、何を言っているんだ。また、いつでも会えるだろう。」というような事を言われた。その時、ちょっと自分のことを認めてもらったような気がして、素直に嬉しかったのを覚えている。
 実際、その1年後に同じくミオの新作展で、いつも通りニコニコした平木さんにお会いすることが出来た。しかし残念ながら、その後ついぞ、あの笑顔を見ることは出来なかった。

 平木さん、安らかにお眠り下さい。謹んでお悔やみ申し上げます。
エッセイ  ||  リンク  |  2009年03月01日 13:52 投稿     Permanent Link

世界的な未曾有の経済危機

と言われる中、トヨタ自動車の業績悪化などで豊田市の法人市民税が、前年度当初予算比9割以上の大幅減なんて、豊田市と全く関係のない私まで真っ青になりそうな話がありました。
 そんな中、勿論、豊田市美術館も来年度の美術品購入費がゼロとか、企画展がほとんど開催されないだろうとか言われており、現在も既に予算が少ないのか企画展の展示はなく、常設展だけ開催されています。
 しかし、常設展と言っても、そこは今まで好調だったトヨタのお膝元。先日、行ってきましたが、トニー・クラッグにエルネスト・ネト、ヴォルフガング・ライプ、ナン・ゴールディン、クリスチャン・ボルタンスキー、奈良美智、曽根裕、荒木経惟、ブランクーシ、etc. と、錚錚たる作家の(多分)所蔵品が、惜しげも無く展示されていました。しかもですよ、常設展なので観覧料はたったの300円。下手な企画展より、何倍もお得な展覧会ではないですか!
 更に、常設展で入場者数も少ない為か、トニー・クラッグやネトをゆっくり見れて、ちょっと感動的です。不況で美術館の予算が削られるだろうとは言え、今後の常設展も多いに期待しちゃいましょう。(って、こんな結びで良いのかな?)

P.S.
実は、ちょっとした縁でバックヤードツアー(?)も出来て、学芸員室で、あの栗林隆の作品を間近で見れたりして、ちょっと有意義な日でした。笹井史恵さん(常設展と言っても、1室は彼女の個展みたいなものですよね)どうも、ありがとう。


   

エッセイ  ||  感想  |  アフィリエイト  |  愛知  |  リンク  |  美術  |  2009年02月24日 01:33 投稿     Permanent Link

所詮、写真にすぎないのだ

と、いつも自分に言い聞かせている。
 撮影時や撮影後に、露出補正や色補正をする。場合によってはデータをいじくったり、合成までしちゃう。ちょっとした技術やセンスは、あれば便利だろう。だけど、それでも本質的に、写真はシャッターを押せば写るんだ。写真は創造するメディアではない。記録するメディアだ。そう、誰にでも簡単に出来る仕事だよ。
 だから(それがたとえ、人ではなかったとしても)被写体には感謝しないとね。それが目の前にいなかったら、写すことなんて出来やしないのだから。自分の努力や苦労よりも、被写体の存在の方がはるかに偉い!

 こんなことを写真を撮れば撮るほど、考えるようになってきました。だから、必要以上に著作権にこだわりたくないし。でも誰か、私よりずっと頭の良い人が、私の写真を使って勝手に儲けられても困るし(と言っても、そんなに儲けられる写真ではないと思うが...)なんて思ったりして。
 そんなことも考えて、(C) の文章を書いたのです。
 それと青臭い考えですけど、やっぱり自分の未来よりも、表現の未来を信じたいのですよ。新たな表現とか言っても、結局それは、いままで誰かが試みた表現の引用やリスペクト、もしくは反省や反逆から生まれたりする訳で、そんなサイクルから、また新たな表現が生まれると思うのです。そのようなサイクルの中に、もしも自分が入ることが出来たら、それは無条件で幸せなのではないだろうかと。
 まぁ、理想論ですけどね(笑)

P.S.
そう言えば、最近、クジャムボンって活動していないのだろうか?
エッセイ  ||  2008年06月03日 11:41 投稿     Permanent Link

養老天命反転地

に行ってきました。噂に違わず、色々危なっかしいテーマパーク(?)でしたが、その危なっかしさが魅力の場所です。(その為か、子連れ親子よりも、カップルのデート中心の客層でしたね)
 しかしまあ、こんなのどかな田舎に、ここまで仰々しい作品(テーマパークって言うより相応しいよね?)を造ったなぁ、という感じで、もしかすると作者よりも、当時の岐阜県知事が偉かったのかも、なんて思ってしまいます。
 はっきり言って、びっくりする程良い景色です。濃尾平野が目の前に広がっていて(この後に行った、温泉の方がびっくりでしたが)、そんな景色に同調しているのか、それとも対抗しているのか、ともかく大袈裟な作品。カメラを持参していながら、相変わらず撮ってないけれど(またまた...)、絶対、絵になる写真が撮れると思うよ。
 でも何なんだろうねぇ、あの思わせぶりの地図とかは。パンフレットやホームページには「使用法」なるものが載ってたりして、そんなに記号や意味や手引が必要なのだろうかと思ってしまう。あのような体験型作品で重要なのは、各々の体験による、人によって別々の理解や発見であって、作者の思想を理解することではないと思うのだが。
 そういうところが、ちょっと興醒めでしたけどね。
エッセイ  ||  岐阜  |  リンク  |  感想  |  美術  |  2008年05月21日 10:28 投稿     Permanent Link

大安の土曜日

京都市内にいたのですが、正装の人を多く見かけました。まぁ、日取りが良いですからね(笑)。
 で、その日の夕方、「大和由佳」展を見に、neutron へ行ってきました。
 neutron のある、文椿ビルヂングの前にも、もちろん多数の正装。その中でも一際目立つ、花嫁であろう女性がいるなぁ〜、なんて思っていたら、花婿にエスコートされて文椿ビルヂングに入っていきました。何となくばつが悪いなぁ、と思いながら、その二人のすぐ後から文椿ビルヂングに入る私と同居人くん。すると、前の二人は2階への階段を上って行きます。まさか!なんて思ったのも束の間、私達が向かっている neutron へと入っていくではありませんか!
 ギャラリーだけではなくカフェもある neutron(って言うか、今やギャラリーを併設しているカフェと言った方が良いですが)で、なんと、結婚式の二次会が始まってしまいました!
 「え。。。?」っと思って DM を確認。DM では今日は休みになっていない。でも、カフェとギャラリーは同じ入り口。ドアの向こうは見ず知らずのカップルの結婚式。
 ちょっと唖然として、外の窓からギャラリーとカフェを交互に見ていたら、中のスタッフがこちらに気付いて、ギャラリーには入れますよ、というゼスチャー。ちょっとあり得ない展開です。
 スタッフにドアを開けてもらい、パーティー中に部外者がすみません、という雰囲気でギャラリーへ。
 neutron へ行ったことのある人なら分かると思いますが、ギャラリーとカフェは大きなガラス戸で仕切られているだけなので、ギャラリーからカフェが丸見え(もちろん、カフェからもギャラリーが丸見え)。しかも、「泥で洗う−食卓」と題された展覧会場には泥だらけの食卓。ガラスで隔てられた向こう側のカフェでは、本物の御馳走が並んだテーブル。ギャラリーの食卓には椅子があったので、それに座ってみると、見ず知らずのカップルの結婚式の二次会に参加しているようで、でも私達の前には食べることの出来ない食事が並んでいて、最高に面白いシチュエーションでした。
 もう結婚式の二次会は無いかもしれませんが、「大和由佳」展は、5/11までです。(いや、ゴールデンウィークだから、もしかしたら、これからもまだまだ... )

P.S.
ちなみに、こちらは興味津々でカフェを眺めていたのですが、カフェから、こっちの見る人はいなかったなぁ。
エッセイ  ||  京都  |  感想  |  リンク  |  美術  |  2008年04月30日 00:03 投稿     Permanent Link
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